心を強くするメッセージ

あなたが別のあなたに変わるためのお手伝い

「困難」を難問にしないこと

喜・怒・哀・楽は外部情報にあるのではなく

それを受け取るあなたの、脳細胞である「魂」の価値判断にあります。

コップに水が半分あるのを

もう半分しかない

逆にまだ半分ある――

との「状況」判断・評価です。

コトがうまく行かない時「まだ努力が足りない」と肯定的に頑張る人

「こんなにやってもダメなものはダメ」と否定的にあきらめる人。
 

「問題」に対する姿勢です。

「困難」は問題でもなく、難問でもありません。


あなたがたの会った困難で、世の常でないものはない

     コリント人への第一の手紙 第10章  13節

 

この言葉をしっかりと、頭に叩き込むことです。
 
水がまだ半分あるか、もう半分しかないか、の問題に対するあなたの姿勢です。

コトが成就しないといって、落胆してはなりません。

あなたがその「問題」に取り組む姿勢を試されているのです。

安易にコトにとり組んでもいけませんが、難問だと怯えてもいけません。

 

 

 

この時期になると、「追悼 ~亡くなった著名人を偲ぶ」という特集が組まれ

各界大御所が活躍する作品や姿をもう観れないのだという一抹の淋しさを感じます。

 

その中でも、11月に逝去された、戦後日本を代表する詩人「谷川 俊太郎」さん。

多くの作品が国語の教科書に採用され、若い頃から慣れ親しんできた方だったので

92歳に至る今まで、現役で活動されていたこと自体に感銘を受けました。

 

「天才」「巨人」と崇拝されることを拒み、自由闊達にかつ優しい言葉で表現し

つづけてきた作風は、読む人の心を幸せに、そして滋味深く、開放してくれる。

 

40歳の時の作品『生きる』

生きているということ

いま生きているということ

それはミニスカート

それはプラネタリウム

それはヨハン・シュトラウス

それはピカソ

それはアルプス

すべての美しいものに出会うということ

そして

かくされた悪を注意深くこばむこと

 

80歳の時の作品『ただ生きる』

立てなくなってはじめて学ぶ
立つことの複雑さ
立つことの不思議
重力のむごさ優しさ

支えられてはじめて気づく
一歩の重み 一歩の喜び
支えてくれる手のぬくみ
独りではないと知る安らぎ

ただ立っていること
ふるさとの星の上に
ただ歩くこと 陽をあびて
ただ生きること 今日を

ひとつのいのちであること
人とともに 鳥やけものとともに
草木とともに 星々とともに
息深く 息長く

ただいのちであることの
そのありがたさに へりくだる

 

40歳の時の「生きる」と80歳の時の「ただ生きる」を比するとき

人間の生き方の変遷~原点が見えてくるような気がします。

 

若き時代の煌めきと鋭さから、有り難さにへりくだる年を重ねた者の行き着く真実。

 

そんな、谷川俊太郎さんでも、死ぬ間際まで興味を持っていたが

唯一、理解できなかったのが「死ぬということ」

 

「もう92年生きてきたから、生きることはわかったような気がするんだけど

死ぬっていうのはどういう感じなのかな。

想像してみるんだけど、困ったことに死んでみないとわからないんだよね」

 

何となくは理解できていても、実際言葉に置き換えられなかったのかもしれません。

結論を示すことはしない、啓蒙する気は少しもないという、谷川さんのポリシー

だったのかもしれませんが、偽らざる本音だったかもしれませんね。

 

ただ、晩年の詩にあった「そのありがたさに へりくだる」という一文に

全てが託されているのかもしれません。

 

知の巨人と言われた「立花隆さん」も、死を間近にした老婆の「ありがたくて感謝しかない」という言葉に「全てが集約されている」と生前、発言されていました。

 

「死の先にある世界」は神とともに生きている人間にしか見えません。

よるべない気持ちで迎えるのか、確信に満ちて旅立てるのかは、その人次第。

 

私は、谷川俊太郎さんが、今ごろ天国で「どのような詩」を紡いでいるのか

とても知りたいと思っています。さぞかし、素敵な世界を詠っているのでしょうね。

 

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アドベントリースと未来への光

 

クリスマスが近づくと、夜の街はイルミネーションに彩られ

同じように華やいだ演出が施される家庭も多い今日この頃。

 

例えクリぼっちでも、それらは見る人の心を温め

癒やしと希望を与えてくれます。

 

クリスマス・オーナメント花盛りのこの時期、アドベントリースをやっている

家庭や教会はどれくらいあるのでしょう。

 

ドイツの神学者ヨハン・ハインリッヒ・ヴィヘルンが、運営する孤児院で

クリスマスを楽しみに待ち望む子供たちに、中心に4本のキャンドルを立てて

作ったリースに、日曜日ごとに蝋燭の火を灯していき、クライマックスへの

カウントダウン=子どもの心に「待つ」という姿勢を育ませたのが

アドベントリースの始まりでした。

 

キリスト生誕の「物語(聞くこと)、祈り(語ること)、ろうそくの火(見ること)」を三位一体にして、「クリスマスの本来の意義」を解き明かしたのです。

 

クリスマスは賑やかに楽しく、美味しい食事をして、プレゼントを貰う…

日本ではお祭り行事として形骸化され、その先にある「なぜ?」がないがしろに

されているケースがほとんどです。

 

4週間かけ待降節(キリストの降誕・再臨)を待ち望む期間とは捉えられていません。

 

1本目のキャンドルは「希望」、 2本目のキャンドルは「平和」を表しています。

今、世界がどのような状況に置かれ、どれほどに「希望」と「平和」が真に求められているのか、キャンドルの灯火を見ながら、深く考える時間が必要なのです…

 

今年のクリスマスを機に、私たち大人が子供たちと共に

本当のクリスマスの過ごし方を考えてみる、良いチャンスとしてみませんか?

 

未来を照らす光=アドベントリースを心の中に灯しましょう!

 

 

言葉の重みを知ること

 

教訓を捨てる者は命を軽んじ、戎めを重んじる者は悟りを得る――

教訓とは「為す」べきことを、いかに為すかであり

「為す」べきでないことを、いかに為さないかです。
 

相手の善いところは心からほめあげ、

相手の悪口は一切言わない…

これが教訓と戎めです。

知恵ある人は言葉数が少ないものです。

なぜなら、コトバが多いと余計な係わりごと

余分な世話事がふえるからです。
    

逆に愚か者は、洗いざらいしゃべりまくり

抱えなくてもいい問題まで抱えこんでしまいます。
 
噂話はおいしい食べ物のように、腹の中に沁み込みます。

舌を戎めのフタで閉じること。
 

いのちを愛し、さいわいな日々を過ごそうと願う人は

舌を制して悪を言わず、くちびるを閉じて偽わりを語らず

悪を避けて善を行い、平和を求めてこれを追え――
 ペテロの第一の手紙 第3章 10~11節

 

「為したい」ことだけでなく「為すべき」ことを教えて下さい…と祈ることです。

 



 

魂のコレステロール

 

相手の顔はよくみえても、自分の顔は自分で観ることができない…

という「悲劇」を人は背負っています。

人のアラはよくみえるが、自分のアラは全然見えないということです。

 

イヤな自分の言動を自分自身で悟ることができない

という「重荷」を人は背負っています。
 

人をさばくな、自分がさばかれないためである。

あなたがさばく・そのさばきで自分もさばかれ、

あなたが量るそのはかりで、自分にも量り与えられるであろう
 マタイによる福音書 第7章 1~2節 


「さばき」と「ゆるし」は表裏一体です。

人間関係崩壊の99%は「ゆるし」の無さの証明です。


嫌な事をする相手の罪をゆるしてあげる…
ここには、人脳の原理を超えた、心脳の真理が表出されます。

許さないから赦されない、許すから赦される~という真理が働らきます。

真理は心のことばです。

 

人を裁くことはできません。

裁きは憎しみを、我が身に積み上げます。

それは魂のコレステロールとなり、我が身をやがて滅ぼします。
 

赦しの真理のみがそれを溶かし去ることが出来るのです。

 

 

投資信託、新NISA、iDeCo…宝の蓄え所

 

昨今、老後不安を煽り、貯蓄や投資を勧める向きがある。

 

投資信託、新NISA、iDeCo…金融筋のプロから勧められるとどうしても心が動く。

そして、今は投資が基礎的な生活防衛の手段と思われているが過信は禁物です。

 

市場の大暴落で気がついたら元本も危うくなって、大損をする人も出ています。

 

お金は命の次に大切とも云われていますが

それに拘り、アクセクし過ぎると人生を虚しくし、台無しにします。

 

私たちの周囲にはお金では買えない、かけがえのないものがたくさんあるのです。

全てを叶えられるようで、全てを叶えられないのが「お金」と認識しましょう。

 

あなたがたは自分のために、虫が食い、さびがつき、また、盗人らが押し入って

盗み出すような地上に、宝をたくわえてはならない。 

むしろ自分のため、虫も食わず、さびもつかず、また、盗人らが押し入って盗み出すこともない天に、宝をたくわえなさい。 

あなたの宝のある所には、心もあるからである。

 マタイによる福音書   第6章 19~21節

 

この世で価値のあるものは、人の価値観を乱し、争議を起こし

最終的にはほとんどを国に収奪されます。

お金より大切な「善」や「愛」「信仰心」を積み上げる人こそが

本当の永遠の豊かさを得られるのです。

 

「命のパン」はお金では買えません。

 

人生において重要なことが何かを、常に考える習慣を身につけましょう。

 

 

承認欲求…自我と他我との闘い

 

人の評価や歓心を買うことばかりを、常に考えている人間は

最終的に一番大切なものを見失ってしまいます。

世間の流行に乗り遅れないようにとか

社会的影響力のある存在に反論しないようにとか

とかく周囲の眼を気にして、他人からの同調や賛同を得ることでしか

自分の心の平安を保てなくなっている…これはもう「承認欲求の重症化」の域です。

例えいっとき振り向いて注目されるためだけに

あなたの全ての神経と全てのエネルギーを費やしてはいけません。

その一瞬のために人生を台無しにしてしまうことが多いことに気を付けましょう。

そのような、愚か者には決してならないで下さい。

 

自分の堅く信じるところで黙々と、かき乱されることなく

一貫した己の生き方を追求する者は、天がキチンと見届けてくれています。

天に歓心を置くことで、あなたの心は静まり、落ち着き、平安を得られるでしょう。

 

また、逆に承認欲求の塊のような人間に、左右され騙されてもいけません。

そのような人間は偽善者の仮面を被り、あなたにすり寄り近づいてきます。

あなたの大切な、魂と財産と真理を奪い取り、隷属化することが目的なのです。

全てを貪り取られる前に、悪の催眠術から目覚めなくてはいけません。

 

むなしいだましごとの哲学で、人のとりこにされないように気を付けなさい。

 新約聖書 コロサイ人への手紙 第2章 8節

 

自分を必要以上に大きく見せようとする人間には、細心の注意をしてください。

その裏に隠された「悪事」を見抜く知恵を身に付けなければ

騙し事と悪意に満ちた、この壊れた世界で生き抜くことは非常に難しいものです。

 

自分の人生だからといって、全てを握りしめようとしてはいけません。

それが全ての間違いの元となります。

 

今まで以上に自らを訓練し、より深いレベルで謙虚に自分の愚かさと弱さを知り

自分にではなく、間違いのない評価すべき存在に無償の愛と歓心を置きましょう。

 

 

最善は偽善に通じる

 

今日もイヤな一日だった、と悔いを残してはいけません。

人間はだれでも「完全」「完善」ではありません。

神・仏ではありません。

だから人間には完全なる完善をなす力がないのです。
 
ヒトの為す善は「最善」ではなく「次善」です。

つまり、善は偽善に陥りやすいということです。

偽善とは、悪が形を変えて善になることです。


しかし、善を放棄してはいけません。

あなたの一日は最善ではなく、次善だったということです。

それは、とても立派なことで評価されるべきことです。
 
善を行うことにうみ疲れてはならない。

たゆまないでいると、時がくれば刈り取るようになる。

機会があるごとに、だれに対しても善を行いなさい。

 新約聖書 新約聖書のガラテヤ人への手紙 第6章 9~10節


まかないものは生えてきません。

人は自分のまいたものを刈り取るようになっています。
善にさとく、悪にはうとくあることです。
 

嘆き悲しまないことです。

「次善」大いに結構です。
偽善で悪の深みにはまるよりは、世の役に立てているからです。

 

 

今日のメッセージが、あなたの足もとのともしびとなり

あなたの道の光となりますように…

 

肉体の疲れは「時」が解決してくれます。

よく食べてよく眠ることです。

 

しかし、魂の疲労はその効果をだし得ません。
魂の元気回復はただ単純法則に従うこと!
 

「わが魂よ天を仰げ、何でそんなに思い悩むのか

いま、この時を生きているではないか」
そして、元気作業に励むことです。

また、人を元気づける者は、自分も元気をもらえる、という法則もあります。
この法則に従うと

 

「あなたは新たなる力を得、鷲のように翼をはってのぼることができる。

走っても疲れることなく、歩いても弱ることはない」
 
人のからだには、生体リズムというものがあります。

生きる喜びをもつ者には、生きる力が与えられ

全てを悪く考える人には、悪いリズムが連なっていきます。

さて、生体リズムをどうとり入れるかです。
きつい時に人に手を差しのばすと、走っても疲れる事はありません。

 

やってみる事です。

 

 

あなたがたは自分のために、虫が食い、さびがつき、また盗人らが押し入って

盗み出すような地上に、宝をたくわえてはならない。

むしろ自分のため、虫も食わず、さびもつかず、また、盗人らが押し入って

盗み出すこともない天に宝をたくわえなさい。あなたの宝のある所には

心もあるからである。

 新約聖書 マタイによる福音書 第6章19~21節

 

ここで言われている「宝」とは、何でしょうか?

この世で言うところの「宝」とは、お金や宝飾品、高級品、希少価値のあるものなど

そのほとんどが物質的なモノです。

 

世の中は数限りなく人を魅了するモノで溢れかえって、人間は足ることを忘れ

その欲望の渦に呑み込まれるばかりです。自らを戒め気を引き締めないと

物質的なモノを追い求めるあまり、一番大切なモノを見失ってしまいます。

 

毎日、ブランドものに身を固め、高級車を乗り回し、贅を尽くした食事に舌鼓を

打ったとして、本当の心の豊かさを得ることは出来るのでしょうか?

 

腐ることも朽ちることもない心の安らぎは、物質的なものの対極にあります。

地上のきらびやかなまやかしに目と心を奪われることなく、永遠で真の価値の

あるものを見据えて、どこに何を積み上げていけば良いのか考えてみませんか?

 

 

今日生かされている喜び、家族の笑顔、大切な存在との霊的な繋がり…

それらの前では、この世の「宝」は取るに足りません。

 

過剰な贅沢「物質的な宝」は心の窓を曇らせ、高慢さと差別と蔑みを生み出します。

人に与えることを惜しむ心が自分の器量を狭くして、人間的な価値を下落させます。

 

表面的で、ささいで,はかないことを得ようとすることがいかに愚かなことかを

直視して、人間としての慈愛や絆、人のために役立てることを「宝」「富」として

積み上げていきませんか?

 

この世に困っている人は数限りなくいます。災害、貧困、病気、戦争…

他人事でなく自分事として、行動することが「宝」を積み上げることになるのです。

 

今日のメッセージが、あなたの足もとのともしびとなり

あなたの道の光となりますように…

偽物(悪魔)に洗脳されないように

すべてのものを識別して、良いものを守り

あらゆる種類の悪から遠ざかりなさい。

 新約聖書 テサロニケ人への手紙 第5章 21~22節

 

この世の偽物は、まるでそれ自身が真実で絶対的なような佇まいをしています。

網の目にかかった獲物にマインドコントロールを仕掛けて、あなたの心を支配し

行動・思考・感情・情報などを制御し、最終的にはあなたから金銭や財産を搾取し

同じ被害者を増やすために、その働きに加担させるサイクルに組込んでいきます。

 

人間は「変えられないもの」「変えにくいもの」に対し、ストレスや焦りを感じて

偽物=悪魔の囁きに引き寄せられてしまうことが多々あります。

 

他人の心や、自分の消せない過去などの「変えられないもの」

自分の性格や、置かれた環境、人間関係などの「変えにくいもの」

これらに悩まされ、藁をもすがる思いになったときに、人は「洗脳」という悪魔の

囁きに、気持ちの隙や弱みを突かれ、心を絡め取られてしまいがちです。

 

騙す側の人間は、騙される人間に都合の良い風呂敷しか拡げません。

自分が優れている人間だと、神秘的に見せかけ、選任思想を植え付けます。

自己愛が肥大化し自己陶酔が常態化しているナルシストは、いかにして自分が

秀でた人間かをアピールし、常に対人操作を仕掛けてきますので注意が必要です。

 

評価に値しない小さな出来事を、針小棒大に誇張して自分の手柄となし

自らのカリスマ性を高める材料にしようと躍起になっています。

また、それを批判する全てに対し徹底的に攻撃的になります。

 

自分軸をシッカリ持っている人々は、そういう偽物を俯瞰して直感的に見抜きます。

自分軸がないと、恐怖や呪縛に支配され、いつの間にかコントロールから抜け出せなくなっていきます。

 

オウム真理教事件によるサリン事件、旧統一教会による霊感商法、北九州殺人事件、

全世界で見受けられるカルト教団による集団自決、古くはナチスドイツの選民思想による悲劇…全ての大きな悲劇の根源は稚拙な小さな洗脳から始まっています。

また、集団による陰湿なイジメがなくならないのも、洗脳に近い集団心理が働いてのことなのです。見えない悪の囁きは、私たちの周囲にたくさん転がっているのです。

 

人間は他人のことを救うことは出来ません。

出来ると思うこと自体が傲慢で不遜なのです。

自分を守るにはシッカリとしたメタ認知思考(高次元から自分を認知・観察する)が

必要です。自分を客観的に見て、相手をも客観視して疑い、鵜呑みにしない心得。

 

そして、天地万物の創造主の存在を知り、目に見えないものに祈ることです。

目の前のまやかしに心奪われる事なく、何が真実であるのかを追求してみましょう。

 

富むことを願い求める者は、誘惑と、わなとに陥り、また、人を滅びと破壊とに

沈ませる、無分別な恐ろしいさまざまの情欲に陥るのである。

 新約聖書 テモテへの第一の手紙 第5章 9節

 

全ての真実は「聖書」にあります。くだらない偶像礼拝に惑わされることなく

聖書を読んでみて、教会に通い自分の生活軸をどこにおくべきか考えてみましょう。

 

 

今日のメッセージが、あなたの足もとのともしびとなり

あなたの道の光となりますように…

言葉の重み~舌の奴隷にならないように

いのちを愛し、さいわいな日々を過ごそうと願う人は
舌を制して悪を言わず、くちびるを閉じて偽りを語らず
悪を避けて善を行い、平和を求めて、これを追え。

 新約聖書 ペテロの第一の手紙 第3章:10-11節

 

「舌を制する」という表現は、しばしば聖書において使われています。

これを、ことわざ的に言い代えれば「口は災いのもと」ということになりますが

舌を制御することがいかに難しいことなのかは、失言によって信用失墜し
窮地に追い込まれる政治家や著名人(芸能人含む)が後を絶たないのを見ても
明らかです。

 

私たちの身近でも、つい放ってしまった一言や嘘によって、友人関係、夫婦関係
職場関係などで、修復不可能なほどの大きな亀裂が生じてしまったという事例は

枚挙にいとまがありません。

 

人は舌でもって失敗し、また、舌でもって成功もします。

 

私たちはこの舌で相手をほめそやし、また同じ舌で相手を呪います。
まことに、泉が同じ穴から、甘い水と苦い水を同時に噴出すことがありましょうか。

 

ネット社会においては、負の言葉はブーメランのごとく刃となり自分に返って来て

相手の徳を高めるプラスの言葉は、自分の徳を高めるレンガを積み上げます。

 

悪い言葉をいっさいあなたがたの口から出してはいけない。

必要があれば、人の徳を高めるのに役立つ言葉を語って

聞いている者の益になるようにしなさい。

 新約聖書 エペソ人への手紙 第4章29節

 

また、知恵ある人は言葉数が少ないものです。

なぜなら、コトバが多いと余計な係わりごと、余分な世話事がふえるからです。
逆に愚か者は、洗いざらいしゃべりまくり、抱えなくてもいい問題まで抱込みます。

賢者は相手のために熟成された言葉を慎重に選択し「立て板に水」にはなりません。

 

「自分の舌を制する」という事は、すなわち「自分の心を制する」事と同義です。

 

自分の感情のまま、舌から出かかった言葉を、一度喉元で止めて見てください。

その中に「愛」「喜び」「寛容」「柔和」「平安」の要素が含まれているかよく確認してみましょう。そして、その中に、卑しさや妬みから来るトゲのある言葉もしくは自分の物差しや価値観で一刀両断にする冷徹な言葉などに含まれる苦々しさを舌先に感じたならば、一度自分の心の中に差し戻し、それらを浄化してみてください。

 

ほんのわずかな「間」と「心遣い」が持てれば、相手にとって癒やしや安らぎになる

温かみのある言葉に変換して舌に乗せ、渡してあげる事は十分可能なのです。

 

人の悪口・陰口は蜜の味…そのような魔の虜とならぬよう

自分の不純で汚れた舌=自分の不純で汚れた心を、戒めの蓋で永遠に閉じましょう。

 

言葉の重みを知り、無駄・無益・無意味な舌を動かさない者は

悲しい舌の奴隷になることはありません。

 

 

今日のメッセージが、あなたの足もとのともしびとなり

あなたの道の光となりますように…

死の先にあるもの

 

死と、その影響力から免れられる人は誰もいません。

人は死に定められた存在であります。

 

また、死の先にあるものを、実体験として語れる人も誰一人としていません。

(※臨死体験は、死の先の実体験とはなり得ません)

 

そのような中で、日本では死生学に基づく「死への準備教育」が全くといって
よいほど為されてきていないのが現状です。

 

ますます、超高齢化社会に推移して行く中で、人生の幕を下ろす「死」を

ただ「未知で不思議な体験」として終わらせてしまって良いのでしょうか?

 

個人的な最後の希望としての「終活」は、一部の人々に根ざし始めていますが

あくまでそれは、最期の締めくくりを家族任せ、他人任せにしたくないという

「遺言」と同じような類いのもので、「死」そのものを真正面から捉えたもの

では決してありません。

 

「生」と「死」について深く考察することなく、有限である人生を終えること

に憂慮し、人生の各段階で「死」への準備教育を受けるようなシステムを作り

自分自身の「生」と「死」への心構えを幼少から養うべき段階に来ています。

 

死の足音が確実に近づいてきたとき、信ずるものがない大多数の人は

初めて死の先にあるものを「無」として具体的に意識し畏(おそ)れ始めます。

 

一方でクリスチャンは「死」における確実な約束が、聖書や協会の教えから
数多く与えられているので、ハッキリと「死」について自覚できているケースが

ほとんどです。

 

多くのクリスチャンは「キリストと共に死に」「キリストと共に生きる」という

生と死の関係性を認識しています。

 

クリスチャンの生涯は、イエス・キリストとの同じ歩みの分かち合いであり

死は全ての終わりではなく、キリストと共に永遠に生きる通過点でしかないのです。

 

すなわち、それは神が用意して下さる安らかで穏やかな素晴らしい御国へ属される

という望みに到達することで、祝福されるべき出来事として捉えられています。

 

知の巨人と呼ばれた、立花 隆さんが癌を患い、自分の余命を意識したときに

死後の世界を追求する姿を追った「死ぬとき心はどうなるのか」というドキュメントを見たことがあります。有史以来、人類が答えを追い求め続けてきた生と死にまつわる壮大な謎は、結局解き明かされぬまま終わり、立花さんもその生涯を終えました。

 

ことさらさように、死後の世界の存在を科学的に証明することは不可能ですが

逆に「死」をもって全てが終わるとも証明されていないのが科学の限界なのです。

 

死を新たな生への入口と考えるならば、人生のあらゆる労苦も決して無駄には
なりません。よりよい死を迎えるため の準備は、現在の生をよりよく生きよう

とする努力にも通じて行きます。

 

他方、「死」=「無」と捉える人は、大きな試練や不安に襲われたとき

自ら「無」=「死」に逃げ込み、人生の清算という早まった行動を取りがちです。

 

このような「絶望」は「生」を与えてくれたものに対する冒涜であり罪なのです。

 

試練を悲しみ「絶望」するなら「永遠の死」へ落ちて行き

天の訓練と思って処するなら、「救いと生命への道」が用意されます。

 

人生全体の意義は、死によって完成されるものであるから、「死への準備教育」は

そのまま、より良く生きるための教育にほかならないとも言えます。

 

生涯を通じて、かけがえのない自分だけの「生」と「死」を全うできるように

「死」についてより深い思案をめぐらす必要が迫ってきています!

 

 

今日のメッセージが、あなたの足もとのともしびとなり

あなたの道の光となりますように…

妬みは滅びのはじまり

類は友を呼び、妬みは骨を腐らせる…


清いものを求める人には清い世界が開かれ

汚れた思いの人には汚れた世界が待ちうけています。

妬みは他人をうらやみ、呪い、悪意を抱かせ、人の心を汚れた思いへ誘います。
妬みは人の心に毒をまき散らし、汚れた思いで心を支配します。

 

現代人は競ってSNSなどで、自分の人生を虚飾で加工して優越感に浸り

他人と差別化するという、妬みの温床の中で暮らしています。

 

満ち足りていない人々は、絶えず自分と他人を比較し妬みの種を増幅することに
終始し、健全な精神を蝕まれていることに気付くことが出来ていません。

 

妬みは他人の優れた部分を呪うネガティブな感情で、

心の奥底で人の失敗を喜びます。

そして、常に悪意を持って他人を見る悪習が染みついていきます。
 
よろしくない事が魂細胞一杯に広がると、人は鬼畜になり下がります。

良心が摩耗して悪の魔が、肉の欲に付け入り悪の所業を呼び込んできます。

 

殺人、強盗、詐欺、陰口、アラ探し、非難、辛辣な嫌み…

妬みや嫉妬は、魂の中で膿膨らみ、悪い菌種をまき散らし、悪い実を結びます。

あなたがたは、よく知っておかねばならない。

すべて不品行な者、汚れたことをする者、貪欲な者

すなわち偶像礼拝する者は、自ら地獄の中に堕ちていく。
 新約聖書 エペソ人への手紙 5:5(一部改編)

 

悪い思い・行いに繋がっていく妬みの感情から、自分の心を解放しましょう。

 

自分の人生を他人との比較で、ハイ&ローで決して見ないこと。

自分の内から沸き起こる自信を確固たるものにして
揺るがない価値観を植え付けて行きましょう。

 

妬みは、妬む人・妬まれる人、双方に深い傷を残します。

妬みはあなたの心の平安を消し去ります。

妬みはあなたの喜びを盗みます。

妬みはあなたの可能性を奪います。

 

あなたの現在・未来が、隣の庭の芝生の青さに惑わされて、悪い思いに支配されないように意識して気を付けましょう。

物質的な豊かさは、心の豊かさの前では意味をなしません。

 

他人と自分との比較を捨て去ると、本当の豊かさを見つけることが可能になります。

 

自分の心が他人との比較で、惨めさや劣等感に支配されそうになったとき

ゆっくりと大きく息を吸い込みましょう。

その息をゆっくりと吐きながら、自分の心に芽生えそうなマイナスの感情を

自ら全て吐き出す姿を思い描きましょう。

あなたの心の揺らぎが静まるまで何度でも繰り返しましょう。

 

地に足を着けた、自分本来の姿を取り戻すまで…

今日のメッセージが、あなたの足もとのともしびとなり

あなたの道の光となりますように…

無愛を悲しむこと

 

できる限り謙虚で、かつ柔和であり、寛容を示し、愛をもって互に忍びあい、

 新約聖書 エペソ人への手紙 第4章2節

 

人の愛は利害・打算・計算にその基(もと)をおいています。

 

戦いや争いは、その計算・計画が外れ自分の思いどうりの

結果を得ることが出来なかったことに因を発する闘争です。
 
動物の愛には計算がありません。

悲しむべきことには、人間の愛だけがその悪賢さを内に秘めています。
    

誰かを愛するということは、苦しみを受ける覚悟を持つことでもあります。

人の悲しみが自分の悲しみとなります。

人の苦しみが自分の苦しみとなります。

これが、しばしば私たちが自分を守ろうとして

人を愛することを躊躇させ、純粋さを損ねてしまう理由の一つなのです。

 

利害・打算・計算が根底にあると、面倒な事や煩わしい事、自分に不利な事が

要求されかねない人間関係に、心を開くことは非常に難しくなります。

この葛藤の果て・人間関係の果てに「無償愛」と「無愛」の分岐点があります。

恋愛関係然り、仕事関係然り、国際関係然り。

 

「知識は人を誇らせ、愛は人の徳を高める」

 新約聖書 コリント人への第一の手紙 第8章1節

 

損得感情や打算的な考えだけでは「愛に満ちた人生」を送ることは出来ません。

「愛」は「知識」と同様に、人を高みに登らせ、豊かさをもたらします。

 

「謙虚さ」と「柔和さ」がなければ、相手を下に見る高慢さが首をもたげ

「愛をもって互いに忍びあう」精神は、決して生まれません。

 

未婚率と離婚率が増加し続け、また紛争や戦争がなくならないのは

社会的な要因よりも、現代人の心の在り方の問題が大きいのかもしれません。
 

「そこに愛はあるんか?」は、大地真央さんが出演するCMのフレーズですが

シンプルでありながら深い意味を持ち、妙に心に強く残る印象的なセリフですよね…

 

 

問いかけられているうちに、現代人の「無愛」の罪の扉が解き開かれてきます。

つまり、愛の足りなさを指し示されているということです。

天が求めている「愛」を必要十分に持っている人間は、ごくわずかです。
ほぼ全ての人類が、自分の中の「無愛」を悲しむことです。

悲しみの涙が人間の打算を洗い流し「無償の愛」へ導いてくれます。