「哲学」では救われない
哲学とはヒトの思いの「体系」です。論理はあっても愛はありません。
分析はありますが救いがありません。
コトバはあっても力がありません。
命がないからです。
「始めに言葉があった」命は、ヒトの心を・魂を・肉をつくりあげます。
そのすべてに命を与えます。
命のない言葉は「死語」です。
批評・論評は私語であり、死語になりかねません。
それは、相手の痛みを共有しにくいからです。
「喜ぶ者とともに喜び、泣く者と共に泣く」言葉がないからです。
コトバが受肉されていないからです。
「あなたがたは虚しいだましごとの哲学で、
とりこにされないように気をつけなさい。
それは心に従わず、世のもろもろの霊力に捕えられた
魂人間の用いるコトバである」
死んだ言葉をもたないこと、
死語は相手の痛みを受け取ることができません。
なぜなら命が入っていないからです。
安易な結果しか残せない
なんでも隠されているもので、現れないものはなく、
秘密にされているもので、明るみに出ないものはない――
人生を安易に考えてはいけません。
悪いことをすれば悪い結果がでます。
良いことをすれば、必ず良い実を結ぶものです。
そのためには絶えず努力と精進をすること、
訓練と鍛錬をしなければ、モノは古び退化していきます。
真剣な考えごとをしなければ脳細胞は呆けます。
使わなければ筋肉は衰えていきます。
安易な人生は多くの偽りと、見せかけを産みだし、
現実の試練に遇うともろくも崩れ去ります。
艱難を学ぶことです。
――艱難は忍耐をうみ忍耐は練達をうみ、練達は「希望」を産みだします。
安易な道を通って偉大になることはできません。
すべて、良いものはその代償として、きびしい努力が要求されるものです。
安易な方法ばかり追いかけていると、
いざというとき「困難」に立ち向かえなくなります。
悲しむ者はさいわいです
――悲しんでいるあなたはさいわいです。
なぜなら、あなたは慰められるからです。
人は順境にある間は何年たっても物事の表面しか知ることができません。
しかし悲しみに遇うとき、人は深いものを探りだし悲しみを
正しい態度でうけとり、新しい力と生きる勇気とが与えられます。
悲しみは私たちに二つのことを教えてくれます。
まず、自分の悲しみ・痛みを知ることによって、相手の悲しみがわかるようになります。
そして、なぜこの悲しみがわき上がるのだろうという
「存在」の意味を探るようになります。
悲しみをもって自分の存在を問い始めるときに、
悔い改めという真理の眼が与えられ物事の全ての背後を見通すことができます。
目からウロコが落ちることです。
自分の存在を通して悲しみの意味を悟り得るとき、
あなたに新しい生き方が与えられます。
悲しむ者はまことにさいわいです。
持っているものまで失う
学生時代に習った外国語も、使用しなければモノにはなりません。
工作・競技・特殊技能も続けなければ、役に立たなくなります。
「持っている人は与えられて、いよいよ豊かになるが、
持っていない人は持っているものまで取りあげられるであろう」
勤勉に忠実に学習し練習する者は、さらに多くのものを与えられるが、
怠け者は多く与えられるどころか、持っているものまで失ってしまうということです。
私たちは誘惑に打ち勝つごとに少しづつ強 くなり、
つぎの誘惑に打ち勝つ力が養なわれ、
反対に誘惑に負けるごとに少しづつ弱くなり次の誘惑に負けやすくなります。
私たちが行う善行のわざも、次の行いをそれだけやりやすくし、
反対にこのような機会を逃がすたびに、次の機会を見逃すことになります。
人生は常により多く得るか、より多く失うかのどちらかだということです。
持っているものまで失う
学生時代に習った外国語も、使用しなければモノにはなりません。
工作・競技・特殊技能も続けなければ、役に立たなくなります。
「持っている人は与えられて、いよいよ豊かになるが、
持っていない人は持っているものまで取りあげられるであろう」
勤勉に忠実に学習し練習する者は、さらに多くのものを与えられるが、
怠け者は多く与えられるどころか、持っているものまで失ってしまうということです。
私たちは誘惑に打ち勝つごとに少しづつ強 くなり、
つぎの誘惑に打ち勝つ力が養なわれ、
反対に誘惑に負けるごとに少しづつ弱くなり次の誘惑に負けやすくなります。
私たちが行う善行のわざも、つぎの行いをそれだけやりやすくし、
反対にこのような機会を逃がすたびに、つぎの機会を見逃すことになります。
人生は常により多く得るか、より多く失うかのどちらかだということです。
持っているものまで失う
学生時代に習った外国語も、使用しなければモノにはなりません。
工作・競技・特殊技能も続けなければ、役に立たなくなります。
「持っている人は与えられて、いよいよ豊かになるが、
持っていない人は持っているものまで取りあげられるであろう」
勤勉に忠実に学習し練習する者は、さらに多くのものを与えられるが、
怠け者は多く与えられるどころか、持っているものまで失ってしまうということです。
私たちは誘惑に打ち勝つごとに少しづつ強 くなり、
つぎの誘惑に打ち勝つ力が養なわれ、
反対に誘惑に負けるごとに少しづつ弱くなり次の誘惑に負けやすくなります。
私たちが行う善行のわざも、つぎの行いをそれだけやりやすくし、
反対にこのような機会を逃がすたびに、つぎの機会を見逃すことになります。
人生は常により多く得るか、より多く失うかのどちらかだということです。
人の力は儚いもの
今日が明日に必らず結びつくという保証は誰にもありません。
人の力は儚いもの
今日が明日に必らず結びつくという保証は誰にもありません。
死ぬほどの悩みはない
不安と心配――これがダブルショックで襲うのが「思いわずらい」です。
私たちは、今まで耐えられないと思うことをよく耐え、
もう駄目だと思うときにも、どうにか生き抜いてきたものです。
この試練をのりこえ、訓練を耐え忍んだのですから、
断固とした「悟り」を得るべきです。「野の花がどうして育っているか考えてみるがよい。
働らきもせず紡ぎもしない。それだのに、栄華をきわめたソロモンでさえ、
この花一つほどにも着飾っていなかった。野の草でさえ、神はこのように装って下さるのならあなたがたに、
それ以上よくして下さらないはずがあろうか……」
同じ状況のもとでも、ある人は全く平静で・他方は死ぬほどの
心配をする、まことに不安・心配は「心」のありようです。明日の悪を思い煩わないこと、今日の命もわからぬ身です。
生きていない明日を思いわずらわない事。
思い煩いは無益・無意味!
死ぬ程の悩みはない
不安と心配――これがダブルショックで襲うのが「思いわずらい」です。
私たちは、今まで耐えられないと思うことをよく耐え、
もう駄目だと思うときにも、どうにか生き抜いてきたものです。
この試練をのりこえ、訓練を耐え忍んだのですから、
断固とした「悟り」を得るべきです。「野の花がどうして育っているか考えてみるがよい。
働らきもせず紡ぎもしない。それだのに、栄華をきわめたソロモンでさえ、
この花一つほどにも着飾っていなかった。野の草でさえ、神はこのように装って下さるのならあなたがたに、
それ以上よくして下さらないはずがあろうか……」
同じ状況のもとでも、ある人は全く平静で・他方は死ぬほどの
心配をする、まことに不安・心配は「心」のありようです。明日の悪を思い煩わないこと、今日の命もわからぬ身です。
生きていない明日を思いわずらわない事。
思い煩いは無益・無意味!
勝利の方程式をもとう
生きることは大変です、困難です、地獄です。
しかし「人」は生きなければなりません。
あなたがいろいろな試練に会った場合、それをむしろ非常に喜ばしいことと思いなさい、
それは試練がためされることによって、忍耐が産み出されるからである……
困難で身動きがつかなくなった時、まず紙にその「困難リスト」を書き連ねてみることです。
そしてその片方に「幸せリスト」を。
五体健全・家族息災・生活安定、などなどおそらく「困難」の数は
「幸せ」リストの千分の一、万分の一もないはずです。
「天はあなたがたを耐えられないような試練に遇わせることはないばかりか、
試練と同時にそれに耐えられるように、のがれる道も備えてくださるのである」
困難に打ち勝つには喜びの数をふやしていく事。
すると忍耐がうまれ勝利の武器が与えられます。
困難は好機です。
人生の危機を勝機に変える良きチャンスとみるべきです。
愛を追い求めなさい
自分のために時間をとることは簡単です。
人のために時間をとることは出来にくいものです。
そして、愛するための「時間」をとることは、もっとむずかしいものです。
お父さん、今日・一言でも心のこもった言葉を息子にかけましたか。
お母さん、日常の惰性ではなく、真剣に娘のことを心にかけてくれましたか。
「愛は寛容であり愛は情け深い。また、ねたむことをしない。
愛は高ぶらない、誇らない、不作法をしない、自分の利益を求めない。
いらだたない・恨みをいだかない。
不義を喜ばないで真理を喜ぶ。
そして、全てを忍び、全てを信じ、全てを望みすべてを耐える――」
愛を追い求めなさい。
いつまでも存続するものは、心言・希望・愛、この三つです。
そして、この中で最も大いなるものが「愛」です。