無尽蔵の富と宝
あなたの中に無尽蔵に無制限に隠されている「富」と「宝」――
それは、魂にくみ込まれている脳細胞です。
あなたの全身細胞は90兆、脳神経細胞は数千億、
その数千億に数千億のシナプスが絡みつく、そのネットワークをいわゆる、
脳内ホルモン・活性物質が飛び交っています。
その活性物質が富と宝です。
それは内蔵され埋蔵されたままです。
取り出してやらねばなりません。
魂に「声」をかけてやらねばなりません。
勇気細胞・希望細胞・喜び細胞が声をかけられるのを待っています。
「腐敗・静止・停滞している細胞よ、いま動き出せ、
心のエネルギーによって、お前の本来の働きをなせ、生き・動き・流れるのだ」
富と宝は死んでいたものが生きかえることです。
悲しみが喜びに・不満が満足に・憎しみが愛に変わる心細胞を注ぎ込むことです。
90兆の細胞一つひとつに、その思いを込めて心のコトバを送り込むこと!
不幸の扉を開けないこと
金が欲しければカネの扉を開くことです。
欲求だけが先走って、扉に至る道筋を見定めないから、いつまでも失望の連続です。
扉の中にはカネの真理が隠されています。
真理を導き出すには「原理」が必要です。
つまり、ドアを開くカギです。
それには、ビジネス原理・金銭原理・生活原理を整えることです。
原理とは「悪いことをしない」ということです。
正しいものを受けるには、正しい生活・正しい仕事・正しい人生を送ることです。
人はその心にいくつもの「部屋」をもっています。
喜びのドア・悲しみのドア・苦しみのドア――
あなたが、悩み・苦しみ・悲しみ・痛みの中にあるのは、
その「不幸」の扉だけを開こうとするからです。
喜びのドアと希望の扉を開けようとしたことがありますか。
カギはカギ穴にあったものでなくてはなりません。
そうです、「原理」という鍵です。
閉まっているトビラが次々に開いていきます。
人だすけの「試練」
あなたがいろいろな試練に遇った場合、それをむしろ非常に喜ばしことと思うことです。
なぜなら、試練は「訓練」だからです。
悲しみがなければ、喜びは判りません。
苦しみがなければ、楽しみの意味を悟る事ができません。
悩み・苦しみ・悲しみは、生きることの意味を悟らせる道具・用具です。
体験し経験しなければ、実際には役に立たないものが数多くあります。
そのひとつが試練です。
「試練をうけて苦しんだからこそ、試練の中にあるものを助けることができる」
これこそ、実経験・体験の真理です。
試練の中にあるあなた、もう少し耐え忍びましょう。
沈み込んでしまうか、浮き上がるかはその試練をどう「学ぶ」かです。
人は試練と同時にそれに耐えられるように、のがれの道も備えられているものです。
その試練をどう学ぶかです。
苦しみを呪ってはいけません。
自分を助け・人をも助ける事のできる「勉強」を感謝することです。
ベテランは上を見ない
人生は山登りです。
高い頂上を見上げるとつい気落ちし、足を踏み出す事ができなくなります。
先を見ないこと「明日」を見ようとするから、不安・心配・怖れが襲いかかります。
「思い煩いは不必要であり、無益であり有害である。
思い煩っても過去を変えることはできない。
明日のことを心配するのはやめなさい。明日は明日にまかせること。
あなたは、一日いちにちを力いっぱい生きること」
今日この日・いま「この時」だけをみつめることです。
恨みがましく後ろをみたり、不安そうに明日を伺わないこと。
明日のことを思えば、今日の苦しみがもっと大きくなります。
さあ、今日までの導きを感謝すること、すると明日の喜びがみえてきます。
もっともっと感謝の「時」を過ごすならば、思い煩う時間などなくなってしまいます。
不安・心配・怖れは、いまこの時間を有効に用いていない人の「敗者」の生活です。
「いつか」が明日を失う
新聞・雑誌の切り抜き、旅行のときのスナップ写真、返事を要する手紙――
いつかまとめて処理しようと溜め込んだ案件が、あなたの「明日」を奪い取ります。
「いつか」「また」この言葉にまどわされていませんか。
いつかは未定であり、または予定です。
未定と予定は確定ではありません。
確定は「いま」「この時」だけです。
「この時」を先延ばしにしてはいけません。
「いま」を逃げてはいけません。
あなたは現在を何に使っていますか。
「いつか」しようと思うものより大事で重要なものですか。
いまが明日に続くという保証はありません。
「今は恵のとき、いまは救のとき」です。
時間は生まれてくるものではなく、つくり出すものです。
「この時」が恵なのです。
このときを救うものが「明日」に連がります。
モノを溜めない事。
時間を溜めない事。
時と力と財=人生です。
それには「時間」を絶えず吟味することです。
全てに疲れたとき
自分を見つめると疲れ果て、自分から関心をとり去ると「力」が溢れてくるものです。
この不思議な法則に多くの人は気付いていません。
不平・不満・愚痴のほとんどが自分を見つめることにその土台を置いています。
その結果、不信・不平・不満・という小さな石ころが、
その土台のうえに積み重なっていきます。
そしてつみあげられたものが、ある日突然崩壊するのです。
失望・絶望・無望という暴風雨によって――
ところであなたは全てに疲れたときどうしますか!
酒を飲み・旅行をし・思いっきりレジャーを楽しむ――
それも一つの方法です。
しかし心から人生を愉しみ仕事に励むには、一時的な疲れ・疲労回復は限界があります。
あなたが強く・楽しく・美しくありたいならば「奉仕」の技を行うことです。
あなたを必要とする人の手助けをすることです。
この技を行うと不思議に疲れは癒され、弱さが強められます。
まずやってみること!
悪い習慣を断ち切る
「善」をしようとする意志はあるのだが、それをする「力」がない――
つまり悪いと分かっていることがやめられない、
してはいけないことを、ついやってしまうことです。
悪口を言ってはいけない、と自戒しっつも舌が自然に「悪口」にほころんでいく。
また、今日こそ「深酒」にとらわれまいと決心しても、
三杯目以後のことは覚えていない――人間とは何と悲しい「動物」でしょう。
人間である以上、あなたが悪い習慣・してはならない悪癖に悩むのも当然です。
その時絶望の淵にたたずまないこと。
人の習慣はそんなに急に改まるものではありません。
しかし、即・抜け出す決意と行動をとるべきです。
まず、その「悪い」思いが入り込まないように「善い」思いをとり込む――
善い思いとは自分の事を考えないこと、相手のために良い思い・行為をなすことです。
あなたの時・力・財を使い用いることです。
「悪癖」は跡形もなく消えうせます。
まず、蒔かないと生えない
人の良し悪しを言う者の言葉は、おいしい食物のようで腹の奥にしみ込む……
その結果、愚か者のくちびるは争いを起こし、その口はむち打たれることを招く……
つまり、まいたものはその通り結果となって現れるという事です。
良い種を蒔けば良い実となり、悪い種は悪い実を、という事です。
「少ししかまかない者は少ししか刈りとらず
豊かにまく者は豊かに刈り取ることになる」
法則は天も地も同じです。
「各自は惜しむ心からでなく、また強いられてでもなく、
自ら心で決めたとおりにすべきある。
種まく人に種と食べるためのパンとを備えて下さるかたは、
種を備えそれをふやし義の実をも満たして下さるのである」
悪い事もしないがよい事もしない、利害計算によってのみ行動がなされる……
与えるモノがないのではなく、与える心がない……
タネマキの基本心得が失われている人は、刈り入れの喜びは与えられません。
嫌い細胞があなたをさばく
あなたのなかに 「嫌い細胞」 があるのを知っていますか。
イヤな相手を前にするとこの脳細胞が活発な働きをはじめだします。
人間関係とはその相手との間に何を置くかということです。
嫌いな人もいれば好きな人もいる。
そしてこの関係は好きになれば好かれる、嫌いになれば嫌われる、
まさに「物理法則」と同じです。
人を裁いてはいけません。
自分が裁かれないためです。
たとえば、こころの病いのほとんどは人を許していない結果症状だともいえます。
過去の恨みをいつまでも忘れない、つまり相手を裁き続けることです。
人を裁いてはいけません。自分が裁かれないためです。
あなたが裁くその裁きで自分も裁かれ、
あなたが量るはかりで自分も量り返されるからです。
さばきは自分の頭に炭火を積むようなものです。
全身が焼けただれてしまいます。
裁きは双方を呪いの手にオトシいれます。
アラ探しはいけない
人のアラ探しはいけません。
自分もそうされないためです。
あなたが接するのと同じ態度で相手も接してきます。
私たちが人を裁くことをはじめるとき、
その生活は冷笑・高慢・怒り・憎しみの満ちあふれる生活に変っていきます。
人は自分のまいたものを刈り取るようになっています。
いつもトゲトゲしい言葉ばかり使っていると、
自分の人相・顔までがとげとげしくなるものです。
天にツバをすると自分の顔にかかります。
また地につばをすると良心がマヒし、善悪の基準がわからなくなります。
相手の善が悪にみえ、自分の悪は善となるのです。
相手への恨みがいつまでも消えないでいるのも、
相手がツバを吐き返し、裁き返しているからです。
この処理は「相手の頭に炭火をつみあげてやること」
つまりいたわりという暖かな火で相手を包んであげる事です。
冷たい双方のアラが溶け出します。
心の酸素不足
いつも「疲れた」と言っている人がいます。
その人はコトバがからだを支配するということを知らない人です。
「疲れる」のは信念がないこと。《元気》がでないのは希望がないこと。
「面白くない」のはマジメに生きていないこと、
この結果症候群がほとんどです。
これは心の疲れであって、生理学的疲れはほとんどの場合酸素不足によるものです。
血液中には酸素を運ぶヘモグロビンがあり、この働きで酸素が体内にゆきわたります。
リュウマチや筋肉痛は酸素不足によって廃物が筋肉にたまり筋硬直を起こすことです。
心の疲れた人! あなたは心の酸素不足です。
心の硬直を起こしていのちの酸素が行き渡らなくなっています。
いつも自分のことばかり考え、自分だけを見つめていると自己酸素が不足・欠乏します。
相手のことをおもってあげることです。
他者酸素が心にどっと押し寄せてきます。
「時間」と「運命」
一日は1440分、1週間は、168時間、
社長も社員も大人も子供も、この「時間」に関してはみんな平等です。
時間に運・不運などありません。
不運な人生とはあなたが時間を不運に使ってきたからです。
不平・不満・愚痴が幸いな「運」をつくれなくしているのです。
したがって「時間」は注意深く予定され、計画され消費されなくてはなりません。
予定されない時間は悔恨となり、計画されない時間は失望をもたらすのみです。
運命は与えられるものではなく、自分でつくりだすものです。
時間も運命とおなじです。
慎重に小刻みにつかうことです。
小さくためて大きく使う――金銭の奥義です。
まことに「時間」も「運命」も買い戻すことはできません。
過去を悔まないために今日があり、
今日があるために「希望」「信頼」「確信」に充ちた
未来の先取り時間がうまれるのです。
ふたりが一人となる
人は「男」と「女」とにつくられています。
その他の「何者」でもありません。
人は父母を離れて、ふたりの者は一体となるべきである――
これは真理であり命令です。
結婚し子供をもうけ家族構成の交わりをなしていく、
つまりふたりが一人となり一心同体の結果責任を果たしていくことです。
結婚とは二人で困難をどう耐え、どうのり超えるかを学ぶこと、
一人で生きる事はたやすく、逃げ道も簡単ですが滅びも安直です。
さて、あなたは奥さんのために、心から健康を祈ってあげたことがありますか。
奥さんご主人のために、仕事がつっがなくいくよう心から祈ったことがありますか?
いま、その所で相手の無事を口に出して祈ってあげることです。
祈りとは、神・佛へ頼むことではありません。
相手の心に祈ることです。
心には真理の言が満ちているからです。
そして、祈った事は必ずかなえられると信じる事。
信じると「奇蹟」が起こります。
「苦楽」ではなく「苦喜」
苦しみに遇ったことは私によい事です。
これによって私は真実を悟ることができました。
この言葉が出る人は「ホンモノ」です。
苦・楽を共にする――
苦と楽は表裏一体のものだとみられがちですが、
苦は楽ではなく喜びを生み出すものです。
楽になることだけを求めると苦の意味を忘れ去ります。
喜びに転換されて始めて苦の意味が判ります。
「人に知られていないようであるが、認められ死にかかっているようであるが、
見よ生きており、懲らしめられているようであるが殺されず、
悲しんでいるようであるが常に喜んでおり、
貧しいようであるが多くの人を富ませ何も持たないようであるが、
すべてのものを持っている」
これが苦しみを楽しみではなく、喜びに変えた人です。
楽しみにおぼれる人は苦しみをすぐ忘れ、また地獄に帰っていきます。
喜びの人はその喜びを一人でも多くの人に分かち与えようと、
喜びづくりに励みます。
儲けられない理由
「愛がないと儲けることができない」ことを、
私は体験と経験で悟らされました。
自分の好きなことだけをやり、人間関係・仕事関係は、
自分の都合のいい関係しか保たない、
つまり自己中心・自己本位の動物だったわけです。
したがって仕事を愛し・感謝し・喜ぶという心が全くありませんでした。
妻や子供がどうなっても、自分の好きなことだけをやる――
汗を流し・涙を流し・血を流し家族のために命を懸ける、
その気などさらさらない私の若き「時代」でした。
「愛さない者は儲けることができない。なぜなら愛は儲けであるから――」
この真理を知らされたのが、まさに倒れ滅びの道を歩み始めたときです。
妻を愛しなさい、子供を愛しなさい、
そうすると、おまえも救いをうけるであろう――との細い声。
私たちが愛しあうなら、心は私たちのうちにいまし、
信ずる者とならしめて下さいます。